女優の島田陽子さんが、死去しました。
島田さんの死因、遺体を家族が引き取らない理由などについて調べました!
島田陽子が死去
1971年(昭46)のテレビ朝日系ドラマ「続・氷点」などで知られる、女優の島田陽子さんが25日、大腸がんによる多臓器不全のため、都内の病院で急逝しました。69才でした。
70年代に清純派としてブレークすると、海外進出も果たし日本を代表する「国際女優」に成長。
一方で、歌手内田裕也さんとの不倫愛で世間を騒がせ、92年にはヘアヌード写真集、11年のセクシー女優デビューも話題を呼びました。
近年は映画製作に意欲を傾け、亡くなる間際まで、原作探しに取り組んでいました。
葬儀は近日中に、近親者のみで執り行い「しのぶ会」などは、後日開催する予定だといいます。
島田さんの波瀾(はらん)万丈の、人生の幕が突然、降りました。
島田さんは、近年は映画製作に意欲を見せていました。
映画宣伝から還暦を過ぎて作家に挑戦した、篠友子さん(61)の小説「うえから京都」はタイトルを見て「読ませて」と依頼し、製本前のゲラを取り寄せて熟読。
「読みやすいから台本にして。最初に読ませてね」とリクエストし、篠さんが脚本を書いていました。
出版翌日の16日、都内で行われた出版記念パーティーに出席を希望も、入院したため見送っていました。
女優として演じ、女として奔放に人生を演じた島田さん…最後の夢の映画作りは突然、ついえてしまいました。
島田陽子の死因は大腸癌
島田さんの死因は大腸がんだったようです。
3年ほど前から大腸がんを患い、近い関係者のみに闘病を明かしていました。
入退院を繰り返していましたが、今月に入って体調を崩し都内の病院に検査入院していました。
体調は好転し、退院しようとしていた21日夜、大量の下血により血圧が低下し、週末には呼吸や会話、食事がしにくくなりました。
25日午前11時に危篤に陥り、同午後0時57分、病院関係者にみとられて亡くなりました。
近しい関係者は「午後、お見舞いに行く予定だったのに危篤だと連絡が来て…間に合わなかった」と信じられない様子でした。
関係者によると入退院の間には都内のラウンジに通い、大好きだったラムソーダをたしなんでいたといいます。
「役者として役に入れなくなるから」と、抗がん剤治療や手術を断っていました。
21日午後3時まで元気な様子で「大好きなハンバーグが食べたい。黒ビールが飲みたい」など、陽気な会話もしていたといいます。
島田さんは、最後まで女優だったということでしょうか。
延命するより、女優として生きるほうをとっていたのは、いかにも島田さんらしいですね。
遺体の引き取り手がいない理由は?
7月28日には、複数のスポーツ紙が27日に告別式がおこなわれたと報じていました。
その告別式の様子は、こぢんまりとしながらも、故人の好みを反映し、趣向を凝らしたものだったようです。
報道によると、参列したのは「十数人の近親者のみ」で、島田さんの遺体は「金色の刺繍が施された淡いブルーのドレスをまとい」、遺影と一緒に「米ドラマ『将軍 SHOGUN』など出演作品の場面写真が並べられていた」といいます。
しかし、これに対して、
「これは、真っ赤な嘘ですよ。島田さんの遺体はまだ荼毘に付されてもいません」
と、衝撃の証言をする人物がいました。島田さんの元マネージャーで、公私ともに付き合いがあった会社経営者の福島浩一朗氏です。
福島氏はこう続けています。
「私は長年、島田さんのマネージャーを務めてきました。ここ数年は事情があり島田さんから離れていましたが、いろいろと彼女の相談にも乗ってきました。私が最後に島田さんに会ったのは去年の暮れ。
喉にポリープができていることは知っていましたし、ほかにも闘病されている様子は知っていました。しかし、大腸がんだったとは知りませんでした。最後まで映画の撮影に熱心に取り組んでいましたよ。彼女の死を耳にしたとき、涙が止まりませんでした」
島田さんが都内の病院で亡くなった際は、島田さんが代表取締役を務める芸能プロダクションでマネージャーとして働くA氏だけがついていたといいます。
「島田さんは、2019年に離婚されていますし、もう何十年も実母以外の親族とは連絡を取っていなかったため、遺体を引き取る親族がいなかったんです。妹さんが2人いるはずですが、やはり疎遠な関係だったようで……」(福島氏)
病院が仕方なく渋谷区に連絡すると、親族が名乗り出ず、引き取り手がない遺体として、規定どおり、区の管理する施設に安置されることになったといいます。
遺体は区に引き取られており、ドライアイス代が1日6000円かかっているのだといいます。遺体を引き取られる方に請求することになるとか…。
また、渋谷区では、3親等内の親族しか引き取ることはできないそうです。
現在、区のほうで親族に連絡して島田さんの遺体を引き取る意思があるか確認しているそうですが、なんだか悲しい現実ですね。
最悪のケースでは、このまま “身寄りのない人” として扱われて区で荼毘に付され、そのまま無縁仏として共同墓地に眠ってしまうことになるようです。
ハリウッドでゴールデングローブ賞まで受賞した、誰もが知る大女優が、無縁仏になってしまうなんて…。
島田さんが大女優にふさわしい安眠を得る日は、やってくるのでしょうか…。
島田陽子の経歴や若い頃の画像
島田さんの若いころの写真、経歴についてみていきましょう。↓
若いころの写真を見てみると、その美しさにびっくりしてしまいます。
まさに魔性の女という雰囲気も漂っていますね。
島田さんは3歳からクラシックバレエを習い、故郷・熊本から8歳で東京に移り住み、13歳の時に劇団若草に入団。1970年(昭45)にテレビ東京系ドラマ「おさな妻」でデビューしました。
1万人を超えるオーディションで選ばれた71年の「続・氷点」で辻口陽子を演じ、最終回の視聴率は42・7%に達して注目されました。
74年の日本テレビ系ドラマ「われら青春!」ではヒロインの教師を演じ、一躍、国民を代表する清純派となっています。
一方で、同年の映画「砂の器」では、天才ピアニストの愛人を演じるなど、早くから演技の幅を広げていきました。
80年には、米NBCのドラマ「将軍 SHOGUN」に出演。
米アカデミー賞の前哨戦の1つ、ゴールデングローブ賞テレビシリーズのドラマ部門で女優賞を受賞。
翌81年には米国のグエン・アーナー監督の映画「リトルチャンピオン」に出演し、国際派女優へと飛躍しました。
女優として円熟味を増した80年代半ば以降は、女優業よりスキャンダルの話題で芸能界を騒がせました。
88年に同年の「花園の迷宮」で共演した内田裕也さんとの不倫が報じられたのです。
裕也さんは81年に、妻の樹木希林さんに無断で離婚届を提出も、樹木さんが離婚無効の訴訟を起こし勝訴。
結婚はかなわぬ中、裕也さんとの関係を続けたことで「魔性の女」と呼ばれました。
膨大な借金を背負ったとも報じられた中、39歳だった92年に発売したヘアヌード写真集は55万部のベストセラーとなりました。
94年にはテレビの制作関係者と結婚も、11年にはセクシー女優デビュー。19年に離婚してからは独身だったといいます。
昨年12月には、代表作の1つとなった76年の映画「犬神家の一族」のイベントに登壇。ロビーに飾られた若かりし日の写真をスマホで撮るなど、元気な様子を見せていました。
まさかこんなに早く島田さんが亡くなるとは、世間もびっくりしたのではないでしょうか。
世間の反応
世間の反応がこちらです。↓
沖さんのお墓参りに行きたいと仰っていた島田陽子さん。ちょっと体調を崩してしまったので良くなってからと連絡があり、そのままになってしまった。
今頃沖さんと昔話に花を咲かせていらっしゃるかも知れませんね。
さようなら、島田陽子さん。可愛い方でした。 pic.twitter.com/kn2szXtfNM— 沖雅也研究会 (@masayaforever1) July 28, 2022
本当に美しい方でした。突然の死にショックを受けている方も多いことでしょう。
島田陽子さま(69)が逝く。お仕事で何度かお会いしたことが。世評では「魔性の女」と言われたが、女優であればこその褒め言葉。ロープライフを生きた内田裕也さまにかかわり身ぐるみ剥がされたのが運の尽きとなったが、ご本人は一途に尽くす道を貫いた。男運には見放されたがその心は純真だった。合掌
— 村西とおる (@Muranishi_Toru) July 27, 2022
島田陽子さんは、女優として人生を生きていたのでしょう。
最後まで女優を突き通していました。
あんなにテレビで活躍された人なのに
何か、寂しいなぁ・・・引き取り手がいない 島田陽子さんの遺骨 渋谷区が保管中(スポニチアネックス)#Yahooニュースhttps://t.co/itKJwKzleN
— andango@れのれら隊 0505 (@andan_go) August 6, 2022
引き取り手がいないなんて切ないですよね…。
まとめ
今回は女優島田陽子さんの死についてまとめました。
国民的女優の死は衝撃を受けましたが、その遺体の引き取り手がいないということで、また違う注目をされています。
人気女優の遺体が区に保管されたままになっているなんて、なんだか悲しいですね…。
島田さんが安らかに眠ることができるよう、親族の方にはどうにか動いてもらいたいものです。